シナリオの迷宮 ~あるいは(無恥がもたらす予期せぬ軌跡)

脚本愛好家じぇれの思考の旅。とりとめもなく綴っていきます。

2部作形式の是非を考える

近年2部作形式が流行しています。作り手にとっては、利点がありますからね。簡単にまとめてみると__

①2作同時に撮影することで、製作費をぐっと抑えられる。
②前編をヒットさせられれば、後編も少ない宣伝費である程度の興行収入を期待できる。
③これまで手を出せなかった、長編のベストセラー原作を映画化できる。(ネタ切れ回避)

流行るのも納得で、映画制作上のリスクをことごとく軽減してくれるのが、この2部作形式なんですね。

しかしながら、私は好きになれません。なぜって? ほとんどの前編が橋渡しで終わり、カタルシスがないからです。

私たちが2時間の映画を観る場合、たいてい1時間前には映画館に向かい始めます。帰りも平均30分はかかるでしょう。
つまり、1本の映画を観るために3~4時間を捻出しているのです。
にも関わらず、起承転結の結までいかない物語を見せられて、最後に「後編も観てね♪」と言わんばかりの予告編を見せられることもしばしば。

う~ん...観客の3~4時間を頂戴しているのですから、前編にも起承転結をつけて、しっかりとカタルシスを生み出す努力をしてくれませんか?

ヒーローが沢山集まるお祭り映画なら、前編でもヒーローたちの大勝利を見せましょうよ。ラストカットで地獄を見せてもいいですから。
裁判の映画なのに、前編で事件を描くだけっておかしいでしょう。

つまりね。連続ドラマではないのだから、映画館まで足を運んだ人たちをしっかりと楽しませなさい!
後編に繋げるのは、それからだ!

『カメラを止めるな!』旋風を止めるな!(ネタバレなし)

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新宿K'sシネマを連日満席にし、倍のキャパを誇る池袋シネマロサのレイトショーすら完売状態の『カメラを止めるな!』。
チネチッタやジャック&ベティ、ついにはシネコンもその興行的価値に気づいた今、改めてその魅力を確認しておきたい。

①狡猾なインディーズ映画
本作は、無名監督が脚本・監督を務め、無名俳優しか出演していない。当然予算も少ない。それゆえ、チープに感じる部分は沢山ある。
しかし、インディーズ映画ファンは優しいのだ。「よしよし、これぐらい我慢するよ」ってな具合に。
本作を観ている観客も、おそらく序盤は我慢している。
しかし、、、このチープさすら計算だったことに気づかされる。上から目線で優しさをバラまく観客に対し、「ひっかかったなぁ。ヒッヒッヒ」と悪戯っぽく笑う上田慎一郎監督の笑顔が目に浮かぶ。
後は上田監督の手のひらで転がされるだけだ。そして、それが心地よくて仕方がない。
上田監督、恐るべし!

②最高のワークショップ映画
俳優育成のワークショップで選ばれたキャストなので、正直言えばスキルにバラつきがある。
しかし、彼らの個性を知り尽くした後で、上田監督が当て書きしているので、個々の人間性が最大限活かされ、俳優が皆イキイキしているのだ。
もちろん素のままという訳ではなく、役として演じるポイントもしっかりと用意し、スキルアップに適した脚本に仕上げていもいる。
しかも、役名を芸名とだぶらせているので、観客は知らず知らず彼らの名前を覚えている。
つまり、キャストにとっては、一生ものの名刺代わりの作品となった。
ワークショップ映画としてはカンペキと言わざるをえない。

③巧みな脚本だが、見たことのない構成ではない!
ここで一つ大事なことを書いておく。

”決して新しいアイディアの映画ではない! ”

映画でもドラマでも小説でも舞台でも、この構成は使われている。「観たことがない構成」という評判を真に受けて斬新なアイディアを期待したら、確実に肩すかしを喰らう。要注意!
しかしながら、本作の脚本はやはり素晴らしい。このスタイルの脚本としては定型ではあるが、手堅く有機的に絡めている。
しかも、その構成が現実とクロスしていくのが、心地よい感動を生み出す。
これは、難しいアイディアを思いついた監督が、それを避けずに自ら脚本を書いたからである。
そう、上田監督は逃げなかった。 スタッフやキャストを巻き込んで、茨の道を駆け抜けた。

観客の多くはこの疾走についていきたくなる。単なる応援ではない。一緒に走り抜けたくなるのだ。
この伴走は、それぞれの道での全力疾走に繋がる。ある者は自主制作映画に手を出し、ある者は日々の仕事に打ち込み、ある者は国会議員になるという夢のために走りだすかもしれない。
そう、『カメラを止めるな!』は日本人に活力を与える映画だ。低予算だからこそ、「俺も何かできるかも」と思わせてくれる。

さぁ、『カメラを止めるな!』旋風を止めるな!

愛の本質を探る旅__『シェイプ・オブ・ウォーター』

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《じぇれはこう見た》

【ネタバレ注意】
本レビューには、『シェイプ・オブ・ウォーター』のネタバレを含みます。また、ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』についても、結末を匂わす一文があります。未見の方はご注意ください。

【愛の本質に迫る考察が施された、重層的な作品】
本作は表の解釈Aと裏の解釈Bが可能です。裏の解釈を経てから、表の解釈に立ち戻ると、より深い感動を味わえると考えます。そこで、私なりの解釈を綴っていきます。

【表の解釈A】
ヒロインは半魚人に恋をし、彼もまた彼女を愛す。姿を変える水のように愛の形も不定形。これもまた正真正銘愛なのだ!
また、ラストでヒロインは絶命するが、語り部(ヒロインの隣人)は、神である半魚人が彼女を蘇生させると信じている。

これが、一般的な解釈、すなわち表の解釈Aです。怪獣大好きデル・トロというパブリック・イメージからも、すんなり飲み込める解釈と言えるでしょう。

しかし、それならば、ヒロインのマスターベーション、敵役のファックシーン、ネコの残虐シーンなどは必要だったでしょうか?
そこで登場するのが、裏の解釈Bです。こちらでは、全ての要素が有機的に結びついていきます。
まずは、解釈を書き、その後にその根拠を綴っていきます。

【裏の解釈B】
ヒロインは言葉を話せぬ半魚人に自分を重ね合わせ、共感する。初めて出逢う自分と同じ境遇(に見える)の半魚人と生活する間、ルーティンのマスターベーションができず、性欲が溜まっていく。それを愛と勘違いしたヒロインは、半魚人と肉体関係を結ぶ。だが、半魚人にとっては本能にすぎず、愛など感じていない。
姿を変える水滴は、くっついて変形する。共感や性欲も融合すれば、擬似愛へと変わっていく。
ラスト、絶命したヒロインは半魚人に海中へ連れていかれる。本能に従い、半魚人は彼女を喰らう。。。

【裏の解釈Bの根拠】
①半魚人の造型
ラヴクラフトインスマスインスマウス)面とそっくりであるのは、単なる偶然? いや、そうではないでしょう。他にもインスマスとの共通点があるのですが、長くなりすぎるので割愛します。
※興味のある方は、インスマス(もしくはインスマウス)で画像検索してみてください。

②半魚人の男性器
特殊な仕様で、普段は女性のように平らなのに、その時だけ出てくるらしい。なぜこんな仕様にしたのでしょう。平気でマスターベーションやファックを映す監督が、ここだけ逃げたとは考えにくいです。
通常時女性のようにつるんとしているのは、ヒロインが半魚人に共感しやすくするためだと思われます。共感が最初の感情であると、わかりやすくするためでしょう。

③冒頭で描かれるルーティン
起床→ゆで卵を作る→風呂場でマスターベーション→バスで出社
これがヒロインの日常です。彼女は、感情が高ぶらなくても、ルーティンとして性欲を解消しています。そして、半魚人を助けてからは、風呂場が占拠され、このルーティンが崩れます。

④3組の愛の形__全て性欲が絡む
・ストリックランドは、激しいファックを妻と交わします。夫が指を食いちぎられたというのに、妻が自らベッドに誘ったのです。
・黒人の友人は、冷めきった夫婦関係を嘆きつつも、「昔は絶倫だった」と語ります。
・隣人のゲイ老人は、仲良くなった店員の手を握ろうとして拒絶されます。
そう、本作で描かれる愛には、全て性欲が関係しているんです。ヒロインにしても、共感していた半魚人と急に肉体関係を結ぼうとするのは、ルーティンが崩れ、性欲が高まっていたからと言えるのでは? 風呂場を見ての条件反射もあるでしょう。

⑤猫惨殺とその後の急変
唐突に猫を惨殺し、叱られると猫を可愛がり始める半魚人。奇跡を起こすことから神と崇められていたらしい半魚人が、動物としての本能を露わにするシーンです。その後の急変によって、計算してよい子を演じられる頭脳があると示唆しています。つまり、半魚人がヒロインに従順なのも......。

⑥絶命したヒロインを海に連れ去る理由
これは、ヒロインと半魚人が初めて心を通わせた(ように見える)シーンと呼応しています。あの時、半魚人はゆで卵をプールに持ち帰り食べました。今回も......。

【裏の解釈Bを経て、表の解釈Aに戻ってみる】
約100分の時点で流れるミュージカルシーンでも明らかなように、ヒロイン自身も半魚人の愛をさほど感じていません。
海で彼女を食べたというのは、あくまで最悪の可能性にすぎませんが、デル・トロは、こんな残酷な現実をも想起させるように作っています。
ヒロインの愛も、共感と性欲から生まれた幻であり、ましてや半魚人はヒロインを利用しているだけなのかもしれません。
それでもなお、ラストは心優しき隣人の語りに託しています。1度見た風呂場での交わりから夢想した、とても優しい未来に。

デル・トロは、『パンズ・ラビリンス』では極めて明確に最悪の現実を描きましたが、ここでは私たち観客に想像させるんです。考えたくもない最悪の可能性を。その上で、自分の分身とも言えるゲイの老人を通じて、こう語りかけてきます。

「幻だっていいじゃないか。愛は美しいんだ!」と。

☆想像以上に長くなってしまいました。こんな長文を最後まで読んで下さり、本当にありがとうございます。