シナリオの迷宮 ~あるいは(無恥がもたらす予期せぬ軌跡)

脚本愛好家じぇれの思考の旅。とりとめもなく綴っていきます。

『オンリー・ゴッド』”作家主義”とは?(ネタバレなし)

こんにちは、じぇれです。

前回取り上げた『人魚伝説』では、日本の”作家主義”の夜明けとして、ディレクターズ・カンパニーについて触れました。
商業映画においては、監督が本当にやりたいことを妥協せずに貫くのは難しいのですが、それを成し遂げようともがいていたのが、ディレクターズ・カンパニーの監督たちだったんですね。

さて、今回取り上げる映画もまた、”作家主義”に目覚めた監督の作品です。

では、いってみましょう!

《地獄の映画100本ノック その9 『オンリー・ゴッド』》

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監督は、前作『ドライヴ』で多くの観客を魅了した、ニコラス・ウィンディング・レフン
激しいバイオレンス描写を独特の映像感覚で綴り、1級品のエンターテイメントに仕上げたレフンが、再びライアン・ゴズリングと組んだ『オンリー・ゴッド』の出来はいかに?

ん~。。。つらい!
いや、つまらない訳ではないんですよ。
『ドライヴ』でもうっすらと感じられた、量産型ハリウッドアクション映画への嫌悪感を、よりはっきりとした形で描こうとしたことは理解できます。
いわゆる”アンチ・ハリウッド”映画として、一定の評価をされるべき作品ではあるでしょう。
しかしですね、借り物はまがい物にしかならないんです。

どういうことかと言えば、完全にアレハンドロ・ホドロフスキーにかぶれちゃってるんですよ。。。

『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』で知られるホドロフスキーは、「映画は監督の物」と公言して憚らない、稀代の奇才監督。
口八丁手八丁で様々なジャンルの天才たちをメロメロにする人たらしでもあり、使えるものはなんでも使って、自分の作りたいものを妥協せずに作っていくアーティストでもあります。

そんなホドロフスキーに、レフンが入れ込むのもわかるんです。
しかし、”作家主義”のホドロフスキーの映像スタイルを模倣することは、当然ながら”作家主義”ではありません。
ファンの2次創作のようなもので、そこにはレフンの魂が宿らないんですよ。

オンリー・ゴッド』において、ハリウッド的マッチョイズムをアジア的マッチョイズムで否定するというアイディアは、非常にユニークな発想だと思います。
だからこそ、目に見えるホドロフスキースタイルに頼らず、目に見えないホドロフスキーのアート精神を真似していれば、本作はレフンの代表作になっていた可能性すらあるでしょう。
それだけに惜しいと思わざるをえません。

作家性とは、その人本人の個性をきっちりと押し出すことであり、映像スタイルではありません。
アート的ではなくとも、マイケル・ベイなんて作家性全開だと思いません?(笑)

レフンが自らと真摯に向き合い、レフンにしか作れない作品を生み出す日が来ることを、私は切に願います。